
沖縄では祝いの席で欠かすことが出来ない伝統舞踊「かぎやで風」があります。実はこの踊りには意味があるのですが、地元ですらその意味まではあまり知られていません。では「かぎやで風」に込められた秘密とは?
かぎやで風の「かぎやで」とはどんな意味がある?
かぎやで風(ふう)は、沖縄の方言では「かじゃでふー」といいます。沖縄では昔から祝いの席でかぎやで風が踊られてきており、この踊りが終わるといよいよ祝宴が始まります。もちろん結婚式などもこれに当てはまり、どんなに現代風の演出が用意されている今の披露宴でもかぎやで風だけは外されることがありません。
さてかぎやで風の「かぎやで」という言葉の意味についてなのですが、この言葉の意味については諸説あります。なかでも「かくも立派な果報」という意味で「かぎやで」となったという説が最もよく耳にする話です。
かぎやで風の歌は昔の鍛冶屋が作った?
かぎやで風の踊りには琉歌と呼ばれる沖縄の伝統的な歌がつけられています。実はこの歌の作者は「有名な鍛冶屋だった」という説があります。鍛冶屋の名前は「奥間カンジャ―」といい、第二尚氏の初代である尚円王の時代の人物であるといわれています。
元々鍛冶屋として有名だった奥間カンジャ―でしたが尚円王にその功績が認められ、鍛冶職人から国頭按司(現在の国頭村の役人)に取り立てられます。これはまさに異例の大抜擢でした。
もしも奥間カンジャ―の大出世を現代に置き換えて説明するとしたら、田舎で美味しいと評判のレストランのオーナーシェフが、ある日突然総理大臣から「私の右腕として明日から国のために働いてくれ」といわれたようなものです。この例から見てもわかるように奥間カンジャ―の大出世は、本人にとっても周囲にとっても思いもよらないほどの大果報ということでした。
そんな驚くような幸運が舞い降りてきた奥間カンジャ―が、その喜びを琉歌にしたのが「鍛冶屋手ふう」。つまり沖縄方言の「かじゃでふー」は「鍛冶屋手ふう」から来たといわれています。
なんで祝いの席でかぎやで風が踊られるようになったのか?
奥間カンジャ―が自分に舞い降りた果報に感謝し歌にした「かぎやで風」は、なんとその後琉球国王の前でも披露されました。ここで注目しておきたいのが、当時の琉球王国における「鉄」の存在です。
琉球王国は周りを海で囲まれた小さな南の島にすぎませんでしたが、そのことによって中国をはじめとする東アジアの貿易拠点でもありました。貿易において鉄の加工品は非常に重要な貿易品であり、奥間カンジャ―のような腕の良い鍛冶職人は国の繁栄に重要な役割を果たしていました。つまり当時の琉球王国にとって鉄は、国を繁栄に導く貴重な存在だったのです。
だからこそ奥間カンジャ―が歌った琉歌「かぎやで風」は琉球王国の国王の前でも披露されるとこととなり、いつしか歌に舞踊が加わって、現代にまで受け継がれている伝統舞踊「かぎやで風」となったといわれています。
世界遺産「園比屋武御嶽」には琉球と鉄の深いつながりを示すものがある
世界遺産に登録されている那覇市首里にある「園比屋武御嶽」といえば、琉球の国王が旅に出る際に必ず足を運び拝礼をした拝所であり、今も人々の信仰の対象となっている聖地でもあります。
ここには第二尚氏の初代国王である尚円王(奥間カンジャ―を国頭按司に抜擢した人物)ゆかりの島・伊平屋島の神さまが祀られているのですが、実は同じ場所に鉄の神さまも祀られているのです。このことからも琉球王国が鉄をいかに重視していたかがわかります。
登場する2人の男女は「若い男女」ではなく「老翁と老姥」だった
かぎやで風の踊りといえば、1組の男女が登場するのが一般的です。でもこの1組の男女は「若い男女」ではなく、人生の苦楽を知り尽くした「老翁と老姥」のカップルだったということをご存知でしたか?
「なんでおめでたい席なのに年老いた男女のカップルが登場する設定になっているの?」と思うかもしれません。でもかぎやで風が「身に余るほどの果報に感謝し、その喜びを美しく咲くのを待ちわびる花のつぼみに見立てた歌と踊り」であることを考えると、若い男女ではなく人生を知り尽くした2人の方がさらに深みのある踊りとなることは間違いありません。
最近は若い踊り手が老翁と老姥に扮して踊るケースもよくありますが、やはり踊りの設定に合った熟年の男女が踊るかぎやで風は、若い踊り手とは違った深い味があります。