首里城

日本史で江戸時代について勉強していると時々「琉球王国」というワードが出てきます。琉球王国は現在の沖縄県のこと。沖縄県民でも意外と知らない琉球と江戸幕府の関係を知ると日本史が面白くなります。

琉球王国っていつできたんだ?

琉球王国の始まりは1429年のことです。それまでの琉球は「三山時代」と呼ばれており、琉球諸島が北から順に「北山」「中山」「南山」の3つに分かれていました。三山時代は14世紀ごろのことを言います。

三山の王たちがそれぞれ力を蓄え琉球統一の機会を狙っていた頃、日本では鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇による建武の新政(1334年)が始まります。

後醍醐天皇による政権はわずか1年で終了しますが、その後足利将軍家による室町時代がスタートします。

室町時代が最も華やかな時代を迎えたころ、沖縄では中山の王だった尚巴志がようやく琉球を統一を果たし琉球王国が誕生します。

琉球王国の歴史は「第一尚氏王統」と「第二尚氏王統」の2つの時代に分かれますが、琉球王国が江戸幕府と関わってくるのは「第二尚氏王統」の時代です。

第二尚氏王統時代はとにかく波乱の多い時代だった

第二尚氏王統時代は、日本の戦国時代~安土桃山時代~江戸時代にあたります。「意外と長く続いた政権だったんだな~」と思うかもしれませんが、実はこの時代が最も波乱の多い時代といわれています。

琉球王国の国王が政権を奪われ、日本の支配下に置かれるようになったのは1609年におきたある出来事がきっかけです。

この事件をきっかけに独立国として栄えていた琉球国は薩摩藩の支配下に置かれ、最終的に琉球王国が消滅することになるのです。

薩摩藩につかまった琉球の王様はとっても不運な王様だった

琉球王国が事実上の支配権を日本に奪われるきっかけとなった事件の当事者でもあり、当時の琉球王国の王様だったのが尚寧王です。

尚寧王は前の王様である尚永王の実の息子ではありません。尚寧王ももともとは第二尚氏王統の2代目の王様の長男だったので王族ではありましたが、たまたま結婚した相手が尚永王の娘だったのです。

ただ尚永王には生涯男の子に恵まれませんでした。琉球王国では代々男児が国王を継ぐことになっていたため、尚永王の娘と結婚した尚寧王が国王を継ぐことになったのです。

つまり「マスオさん的存在」の尚寧王がいつの間にかに琉球の王様になっていたのです。

ただこれも平和な時代であれば「めでたしめでたし」で終わる話です。でも尚寧王の人生は最後にどんでん返しが待っていました。

53歳で生涯を終えたといわれている尚寧王が人生の晩年を迎えようとしていた40代初め頃、薩摩藩の島津家久が琉球王国に攻めてきます。

そして国王の居城で国の象徴だった首里城を攻め落すと、そのまま国王だった尚寧王を捕らえます。

捕らえられた尚寧王が降伏を申し出たため、これ以降琉球は日本(薩摩藩)の属国として支配下に置かれることになります。

穏やかな晩年を送るはずだった尚寧王は、その後薩摩藩によって江戸に連行されます。

尚寧王は将軍に謁見させられた後、なんとか無事に琉球に戻ってくることが出来ましたがこれを境に冊封関係を強いられることになります。これがいわゆる「琉球征服」といわれる事件です。

独立国なのに2つの国の属国になってしまった琉球王国

尚寧王が体験した「薩摩征服」だけに注目していると「なんだか気の毒な王様だな」で終わってしまいます。

でも日本史では尚寧王サイドから見た歴史よりも「琉球王国」という大きな枠組みで見たときの歴史の方が重要になります。

なぜなら日本に支配される以前から琉球は明と冊封関係にありました。だから薩摩藩に首里城を攻め落とされる前から、事実上明に属する国だったわけです。そのため明が琉球に冊封使をよこすと、その代わりに琉球から進貢船を出していました。

これは毎年行われていたといわれていますが、本当に苦労をしたのは明からやってきた冊封使たちの接待だったといいます。

何かにつけて無茶振りしてくる冊封使たちを怒らせず気持ちよく帰ってもらうために、あの手この手で接待しました。

料理でもケチをつけられないように、冊封使をもてなすための料理人をわざわざ明に留学させたということもあったそうです。

このように大変な思いをしてでも明との関係を何とか良好に保ってきた琉球王国が、薩摩藩の属国になることによって今度は日本の江戸幕府に対しても同じように接することを強制されたということなのです。

200年の間に20回も繰り返された琉球王国の「江戸上り」

首里城を攻め落とされ薩摩藩(江戸幕府)の支配下に置かれた琉球王国は、その後200年にわたって江戸幕府と冊封関係を続けることになります。これを「琉球の江戸上り」といいます。

琉球の江戸上りには2種類あります。まずは親分に当たる江戸幕府の将軍様が代替わりするときに国王が送る慶賀使です。

これは冊封関係にある以上仕方のないことです。でもこれだけではありません。琉球の王様が代替わりしたときにも貢物をしなければいけないのです。これを謝恩使といいます。

このような江戸上りを200年もの間続けてきた琉球王国は、江戸幕府の終焉と共に終わりを告げます。でもそれは同時に琉球王国の消滅のときでもありました。

琉球王国のラストエンペラーである尚泰王もまた、琉球王国の終焉と共に沖縄から引き離されました。

彼の場合は東京に住まいごと移されます。そして彼は生涯二度と琉球の土を踏むことがありませんでした。

琉球の歴史と併せてみてみると日本史がほんの少し面白くなる

琉球王国は「日本とも中国とも違う不思議な国」と思って何となく教科書を開いている間は琉球と日本の関係はなかなか見えてきません。

でもこうしてほんの少しだけ琉球の歴史を知ってみると、現在まで続く沖縄と日本の関係が何となくわかるような気がしてきませんか?

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